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池田ひろ子 - 緑のカーニバル / わたしは舟 (EP) 1977

池田ひろ子 - 緑のカーニバル / わたしは舟 (EP) 1977

『緑のカーニバル / わたしは舟 (EP) 』は、日本の女性アイドル歌手「池田ひろ子 」が、1977(昭和52)年2月25日に発表した通算4枚目のラスト・シングルEP。筒美京平作曲の”緑のカーニバル”の原曲は、1974(昭和49)年台湾の歌手「優雅(ゆうや)」が日本デビューした際の1stアルバム『処女航海~はじめまして優雅です』に収録されたものの焼き直し。B面”わたしは舟”も優雅のカバーで、チャイナドレスを着ての歌手活動となった。

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池田ひろ子 – 緑のカーニバル / わたしは舟 (EP) 1977の詳細

タイトル 緑のカーニバル / わたしは舟
歌手名 池田ひろ子
発売日 1977(昭和52)年2月25日
ジャンル ポップス
発売国 日本
レーベル CBSソニー
フォーマット 7インチシングル・2曲入りEP

池田ひろ子 – 緑のカーニバル / わたしは舟 (EP) 1977 の収録曲

池田ひろ子 - 緑のカーニバル / わたしは舟 (EP) 1977の詳細

  1. 緑のカーニバル
    作詞:有馬三恵子 作曲・編曲:筒美京平
  2. わたしは舟
    作詞:有馬三恵子 作曲・編曲:筒美京平

池田ひろ子 – 緑のカーニバル

緑のカーニバル/池田ひろ子 1977年
作詞:有馬三恵子 作曲・編曲:筒美京平

木枯らし吹き荒れてた野末から
誰がつれてくるのか春のはじまり
待ちかねてはおる七色の衣装(イーサン)
袖も軽やかに皆踊るの
雪溶けの水はたくましく
かぎりない夢をくれたのよ
心はあの春の川のほとり猫柳も芽ぶいて南から
一度に咲きはじめる春の花たち
ねかせてた酒を出す時も来ている
車座になって皆歌うの
目のさめるような思い出よ
愛してやまないわが故郷
心はあの春の川のほとり

池田ひろ子 – 私は舟

わたしの舟/池田ひろ子 1976年
作詞:有馬三恵子 作曲・編曲:筒美京平

風の中の舟は私なの
海へ来たらさがしてみて
誰の手にも呼びとめられない
白い舟が出ているはず
心は故郷離れてるの
生きてる意味を知るためにも
今日にもすぐ旅立てと
何かが私せかせる だから
風の中の舟は私なの
いつもいつも海が見えるの沖を走る舟は私なの
海の人にたずねてみて
いつ頃から姿みかけたか
舟の行方知らないはず
旅立つ事は傷つくこと
あやしく胸はふるえながら
愛にもめぐり逢うため
何かが私せかせる だから
沖を走る舟は私なの
胸の中に荒らしがあるの

池田ひろ子 – 緑のカーニバル / わたしは舟 (EP) 1977について

池田ひろ子 - 緑のカーニバル / わたしは舟 (EP) 1977について

『緑のカーニバル / わたしは舟 (EP) 』は、日本の女性歌手「池田ひろ子」が19歳のときに、CBSソニーから発売したラスト・シングルEP。”緑のカーニバル”発売後、芸名をひらがなの「いけだひろこ」とし、スリットが30cm入ったチャイナドレスを着せられ、大人のイメージでプロモーションを展開した。楽曲も3年前に台湾女性歌手「優雅(ゆうや)」の1st LPで用意されていた”故郷の春”をリメイクしたもので、タイトルだけ”緑のカーニバル”に改題。B面”わたしは舟”も同歌手のもの。

サウンドは、初期「チャゲ&飛鳥」の”万里の河””ひとり咲き”のような、オリエンタル(中国大陸)要素を含むオーケストラが壮大な歌謡曲。B面”わたしは舟”も、同タイプのオリエンタルな作風で、オーケストラも含め筒美京平の作曲能力を堪能できる。作詞は有馬三恵子。

事務所としては、このオリエンタルな楽曲に合わせて、他のアイドルと差別化させるためにチャイナドレスで「池田ひろ子」をヒットさせたかったのかも。

“緑のカーニバル”発売後すぐ「いけだひろこ」と改名した池田ひろ子は、連動して男性雑誌に水着姿でグラビアを飾るが、残念ながら「歌手活動」は、これが最後となってしまった。翌年1978(昭和53)年の4月からは、TBS系の子供番組『ワンツージャンプ!』にお姉さん役として1年間出演した。

池田ひろ子(いけだひろこ)の伝記【バイオグラフィ】

池田ひろ子は、1957年(昭和32)年12月2日生まれの東京都豊島区の出身。本名:池田廣子。身長:156㎝ 体重:45kg スリーサイズ:B 80 W 58 H 86。特技は、タップダンス・モダンダンス・クラシックバレエ。

池田ひろ子(いけだひろこ)が16歳の時

1973(昭和48)年、池田ひろ子は「洗足学園第一高校」1年生のころ、12月30日に開催された、公開オーデション番組『スター誕生(日本テレビ系)』の第9回決戦大会で合格し、ホリプロに所属した。

池田ひろ子(いけだひろこ)が17歳の時

池田ひろ子(いけだひろこ)が17歳の時
池田ひろ子 – 恋のABC / ブルージン同志 (EP) 1975

1975(昭和50)年10月1日、いよいよ念願のデビューシングルとなる”恋のABC”を発売。作詞:安井かずみ、作曲は前年1974(昭和49)年アグネス・チャンの”ポケットいっぱいの秘密(オリコン週間6位)”と、1975年2月にキャンディーズの”年下の男の子(オリコン週間9位)”を手がけた若手の穂口雄右。

当時、イギリスから派生した1950年代後期のロックンロール(オールディーズ)のリバイバルブームが日本でも偶発しており、池田ひろ子”恋のABC”も前月9月10日に発表された林寛子”素敵なラブリーボーイ”と同じく、ロックンロールマナーの名歌謡曲といえる。

この年、池田ひろ子はTBS系バラエティ番組『ぎんざNOW』にも出演している。

池田ひろ子(いけだひろこ)が18歳の時

池田ひろ子(いけだひろこ)が18歳の時
池田ひろ子 – 制服をぬいだら / 友達の兄貴 (EP) 1976

1976(昭和51)年3月1日、高校を卒業する池田ひろ子は”制服をぬいだら”というセカンド・シングルを発表する。作詞:林カヨコ、作曲を愛奴を解散してソロデビューする前の浜田省吾が担当していて、浜田省吾マニアには有名な1曲。前作に引き続きロックンロール歌謡で、B面”友達の兄貴”も同コンビによる軽快なポップスとなっている。

歌のお姉さんに抜擢

4月には、NHK教育テレビ『なかよしリズム』という音楽系教育番組で、福沢良(歌のお兄さん)と一緒に、歌のお姉さんとしてレギュラー出演が決まり、1979年3月まで2年間続いた。

池田ひろ子 - 友達から恋人に (EP) 1976
池田ひろ子 – 友達から恋人に / さよならの意味 (EP) 1976

同年6月1日には初夏の香りがするサード・シングル”友達から恋人に”を発表。作詞:石原信一 作曲を松崎由治が担当したこの楽曲は、ホリプロがタレント発掘オーデションを開始したこの年『ホリプロ・スカウトキャラバン』のイメージソングとしてタイアップされた。

ヒットこそしなかったが、サックスがこ小気味よいリズムを奏でるロックンロール歌謡の佳曲だ。B面”さよならの意味”は、ぐっと大人っぽくなった「池田ひろ子」の歌声にうごめくベースとオーケストレーションのディスコ・サウンドが加味された76年らしいナンバー。

池田ひろ子(いけだひろこ)が19歳の時

池田ひろ子(いけだひろこ)が19歳の時
池田ひろ子 – 緑のカーニバル / わたしは舟 (EP) 1977

1977(昭和52)年2月25日、4枚目となる”緑のカーニバル”を発表。まだ未成年だった「池田ひろ子」を事務所側は、大人のイメージとして売り出そうとしていたのか、チャイナ服に30cmのスリットを入れてメディア露出をし、途中から「いけだひろこ」と無回答(特に何でもよい)平仮名に改名させられ水着などのグラビア露出へ転向となった。

池田ひろ子(いけだひろこ)が19歳の時

大林亘彦監督『瞳の中の訪問者』に出演

池田ひろ子は、同年11月26日に公開された、手塚治虫の医療マンガ『ブラックジャック』の実写版映画である『瞳の中の訪問者』にテニス部員明美役として、映画デビューしている。

池田ひろ子(いけだひろこ)が20歳の時

1978(昭和53)年4月からは、いけだひろことしてTBS系『ワンツージャンプ!』という月曜日から金曜日まで放映されていた子供番組(30分)に出演。翌1979年3月30日まで、約1年間担当した。

池田ひろ子(いけだひろこ)が21歳の時

1979(昭和54)年、21歳の池田ひろ子は「いけだひろこ」に改名したものの、その後いっさいの歌手活動は止まってしまい、東京テレビ系『日本縦断民謡大全集』にアシスタントとして出演していた。

池田ひろ子(いけだひろこ)が22歳の時~24歳の時

1980(昭和55)年から、1982(昭和57)年までは、日清食品提供『3時のおじゃまクイズ(テレビ東京系)』に出演し、宮尾すすむの横でプラカードを持つアシスタント役をつとめていた。