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アレクサンドラ(Alexandra) - Tzigane (EP) 1967

アレクサンドラ(Alexandra) - Tzigane (EP) 1967

『Tzigane (EP) 』は、ドイツの女性歌手「アレクサンドラ(Alexandra) 」が、1967(昭和42)年に隣国フランスのために、先に発売した”Zigeunerjunge”をフランス語でカバーしたものを含む4曲入りEP。原曲がドイツ・チャートで22位になったとはいえ、デビュー年にすでにヨーロッパ市場にフランス語でデビューしていたのには驚かされる。

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アレクサンドラ(Alexandra) – Tzigane (EP) 1967の詳細

Alexandra – Tzigane

タイトル Tzigane / Un Cri D’ Adieu / Ma Guitare / Solenzara
歌手名 アレクサンドラ(Alexandra)
発売日 1967(昭和42)年
ジャンル ポップス
発売国 ドイツ
レーベル Philips
フォーマット 7インチシングル・4曲入りEP

アレクサンドラ(Alexandra) – Tzigane (EP) 1967 の収録曲

  1. Tzigane (Zigeunerjunge)
    作詞:Franck Gérald 作曲:Hans Blum
  2. Un Cri D’ Adieu (Sag’ Nicht Adieu)
    作詞:Franck Gérald, Fred Weyrich 作曲:Arno Flor
  3. Ma Guitare (Golden Earrings)
    作詞:Colette Rivat, Jay Livingston, Ray Evans 作曲:Victor Young
  4. Solenzara
    作詞:Dominique Marfisi, Enrico Macias 作曲:Catherine Darbal, Dominique Marfisi

アレクサンドラ(Alexandra) – Tzigane (EP) 1967について

Alexandra – Un Cri D’ Adieu

『Tzigane (EP) 』は、ドイツの女性歌手「アレクサンドラ」が22歳~23歳のときに、フィリップス・レコードから発売したフランス語録音4曲入りEP。自国ドイツで“Zigeunerjunge”が、22位を記録したあと急遽ヨーロッパ向けに、フランス語バージョンで再録してリリースしたもの。しっかりとミュージック・ビデオも存在しており「アレクサンドラ」のヨーロッパ市場を目標においた活動が、うかがい知れる。

アレクサンドラ(Alexandra)の伝記【バイオグラフィ】

アレクサンドラ(Alexandra)は、1942(昭和17)年5月19日、本名ドリス・トライツ(Doris Treitz)として、かつてドイツの町であったハイデクルッグ(Heydekrug)=現シルテ(Šilutė)リトアニアのクライペダ郡の南の都市で生まれた。

家族が引っ越しをし、アレクサンドラは若き日を北ドイツの町キール(Kiel)とハンブルク(Hamburg)で過ごした。彼女は歌手になることを夢見、10代の頃にピアノを習いはじめ、また自身で作曲もスタートさせた。

大学に入ると「デザイン」を学びながらアルバイトでお金をため、ギターも買い、20歳の時、両親の家へ下宿していたロシア移民のニコライ・ネフェドブ(Nikolai Nefedov)と、はやばやと結婚をする。しかし、2年のうちに離婚し、シングルマザーとして歌手の夢を追うこととなったのだった。

まず初めに、彼女は本当の名を捨て、下の息子の名前アレクサンダー(Alexander)にちなみ、アレクサンドラと名乗った。

アレクサンドラ(Alexandra)が22歳~23歳の時

1965(昭和40)年からしばらく、アレクサンドラはハンブルクを拠点としたグループ『シティ・プリーチャーズ(The City Preachers)』で活動を始める。

そのすぐ後、アレクサンドラはレコードプロデューサーのフレッド・ウェイリッチ(Fred Weyrich)に気に入られた。フレッドは彼女のメランコリックな声質を好み、レコード市場にアレクサンドラの入り込む隙間があると感じて、すぐに彼女をフィリップス(Philips )レーベルと契約させた。

フレッド・ウェイリッチは彼女の初めてのリリースを、通常の歌手との差別化をとるため、シングルではなくLP(アルバム)として発表することを決めたのだった。

アレクサンドラ(Alexandra)が24歳~25歳の時

アレクサンドラ(Alexandra)が24歳~25歳の時
アレクサンドラ(Alexandra) – Premiere Mit Alexandra (LP) 1967

『Premiere mit Alexandra』というタイトルで1967(昭和42)年に発売されたこのデビューアルバムは、“Sag mir was du denkst”とタイトルされたフランソワーズ・アルディ(Françoise Hardy)の“Parlami di te”のカバーや “Warum”とタイトルされたクローダ・ロジャーズ(Clodagh Rodgers)の“Every day is just the same”のカバーとオリジナル曲をミックスさせたアルバムだった。

曲の提供者にはミヒャエル・クンツェ(Michael Kunze)、チャーリー・ニーセン(Charly Niessen)、ラルフ・ジーゲル・ジュニア(Ralf Siegel Jnr)といった著名な作曲家たちが勢ぞろいした。

アレクサンドラ自身もまた、このLPのために“Die Andern waren schuld”を自作した。

アレクサンドラ(Alexandra)が25歳~26歳の時

アレクサンドラ(Alexandra)が25歳~26歳の時
アレクサンドラ(Alexandra) – Zigeunerjunge / Aus (EP) 1967

1968(昭和43)年、ファーストアルバム『Premiere mit Alexandra』とツアーは、彼女への関心を呼びすぐに、ジプシー少年との報われない恋を歌った“Zigeunerjunge”が彼女のデビューEPとしてこのLPからシングルカットされた。

フォークと東ヨーロッパの魅力の組み合わせという、彼女のスタイルを確立させた。この曲は1968年に発売され、ドイツチャート22位のヒットとなった。

Sehnsucht
アレクサンドラ(Alexandra) – Sehnsucht / Was Ist Das Ziel? (EP) 1968

彼女の最大の成功は、次のシングル“Sehnsucht”だった。この曲を彼女は激しく嫌っていたが、マネージャーとプロデューサーに歌うよう強要された。少しずつトップ10からは落ちていったものの、1968(昭和43)年夏のドイツチャートに6か月以上も留まるロングランヒットとなる。

Illusionen
アレクサンドラ(Alexandra) – Illusionen / Auf Dem Wege Nach Odessa (EP) 1968

ドラマチックな曲“Illusionen”は彼女にとっての3番目のヒットであり、最も愛さ続ける曲のひとつとなった(B面には“Auf dem Wege nach Odessa”を収録)。

これは彼女が、オーストリアのスター、ウド・ユルゲンス(Udo Jürgens)とともに作った曲で、後にシャーリー・バッシー(Shirley Bassey)によって“If I never sing another song”としてカバーされている。

1年以上に渡り、彼女は自身でたくさん作曲をしており、またユルゲンスやサルヴァトール・アダモ(Salvatore Adamo)といったスターと共同での作曲も行った。

Alexandra
アレクサンドラ(Alexandra) – Alexandra (LP) 1968

シンプルに『Alexandra』とタイトルされた2枚目のLPが、その年の終わりに発売され、売れ行きは好調だった。

この中でハイライトとなったのは、アダモの“Nombe la neige”のカバーである“Grau zieht der Nebel”と彼女自身が作曲した“Mein Freund, der Baum”で、両曲とも彼女の死後、シングルとして発売されている。

アレクサンドラ(Alexandra)が26歳~27歳の時

Schwarze Balalaika
アレクサンドラ(Alexandra) – Schwarze Balalaika / Walzer Des Sommers (Valse D’Été) (EP) 1969

今まで順調にみえたアレクサンドラのレコードセールスだったが、1969(昭和44)年の彼女のファーストシングル“Schwarze Balalaika”はまったく売れずに、完全に失敗に終わった。

しかもアレクサンドラは、その年のユーロビジョン・ソング・コンテストのドイツ代表を選ぶ決勝にエントリーすることを熱望していたが、体調を崩し参加できなかった。

彼女が3曲のうちどれを歌うつもりだったかということさえ、知られていない。

ブラジルでのツアーがドイツのテレビスペシャルで放送され、彼女の知名度をさらに上げた。

アレクサンドラ(Alexandra) - Erstes Morgenrot / Klingt Musik Am Kaukasus (EP) 1969
アレクサンドラ(Alexandra) – Erstes Morgenrot / Klingt Musik Am Kaukasus (EP) 1969

彼女の最後のヒット曲は“Erstes Morgenrot”で、チャート17位となった。しかし1969年6月にこの曲が発売されてから2週間も経たないうちに、彼女は車の事故でこの世から去ってしまった。

アレクサンドラの死は、何年にも渡り事故をめぐって数々の推測がなされてきた。アメリカのスパイ、ピエール・ラファエル(Pierre Lafaire)と付き合っていたために、彼女の死には、東ドイツの秘密警察や国家保安省シュタージ(Stasi)が関わっている、という議論をする人もいる。

そして彼女の死後、たくさんのシングルやベストアルバムが発表された。

表面上、アレクサンドラの1960年代のドイツ音楽シーンに対する貢献は小さく感じるかもしれない。

しかし、彼女の成功により、新しいスターや、既存のスターたちなどによる、似たような曲の波が起こった。彼女の独特のスタイルは、他のどんなものとも異なり、またどんなものと比べても劣ることはない。

参照元:Ready Steady Girls