『Premiere Mit Alexandra (LP) 』は、ドイツの女性歌手「アレクサンドラ(Alexandra) 」が、1967(昭和42)年に発表したファースト・アルバム。通常、シングルヒットしてからのLP(アルバム)制作となるが、プロデューサーのフレッド・ウェイリッチは先にフィリップス・レーベルと契約させ、アルバム制作にとりかかった。フランソワーズ・アルディ(Françoise Hardy)の“Parlami di te”やクローダ・ロジャーズ(Clodagh Rodgers)の“Every day is just the same”を、ドイツ語でカバーしたものとオリジナルで占められている。
アレクサンドラ(Alexandra) – Premiere Mit Alexandra (LP) 1967の詳細
Alexandra – Sag mir, was du denkst (Parlami Di Te)
タイトル | Premiere Mit Alexandra |
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歌手名 | アレクサンドラ(Alexandra) |
発売日 | 1967(昭和42)年 |
ジャンル | ポップス |
発売国 | ドイツ |
レーベル | Philips |
フォーマット | 12インチ・12曲入りLP |
アレクサンドラ(Alexandra) – Premiere Mit Alexandra (LP) 1967 の収録曲
- Sag Mir Was Du Denkst 2:38
- Akkordeon 2:32
- Zwei Gitarren 3:32
- Janos Von Der Puszta 1:55
- Aus! 2:38
- Alles Geht Vorüber 2:59
- Warum 2:48
- Zigeunerjunge 3:07
- Ein Leeres Haus 2:50
- Solenzara 2:50
- Die Andern Waren Schuld 2:20
- Sag Nicht Adieu 2:50
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アレクサンドラ(Alexandra) – Premiere Mit Alexandra (LP) 1967について
Alexandra – Warum? (Everyday Is Just The Same)
『Premiere Mit Alexandra (LP) 』は、ドイツの女性歌手「アレクサンドラ」が24歳~25歳のときに、フィリップスレコードからシングルよりも先に発売された12曲入りのLP(アルバム)。1967(昭和42)年に発表されたアレクサンドラのこのアルバムには、後ろにアコースティック・ギターが写ったジャケットが採用され、まだ髪の長い彼女のシンガー・ソング・ライター然とした笑顔の少ない構図でイメージされている。アレクサンドラの自作“Die Andern waren schuld”をはじめ、ヨーロッパで大ヒットしていたフランソワーズ・アルディ(Françoise Hardy)の“Parlami di te”、クローダ・ロジャーズ(Clodagh Rodgers)の“Every day is just the same”のドイツ語カバーを織り交ぜながら、構成されている。
アレクサンドラ(Alexandra)の伝記【バイオグラフィ】
アレクサンドラ(Alexandra)は、1942(昭和17)年5月19日、本名ドリス・トライツ(Doris Treitz)として、かつてドイツの町であったハイデクルッグ(Heydekrug)=現シルテ(Šilutė)リトアニアのクライペダ郡の南の都市で生まれた。
家族が引っ越しをし、アレクサンドラは若き日を北ドイツの町キール(Kiel)とハンブルク(Hamburg)で過ごした。彼女は歌手になることを夢見、10代の頃にピアノを習いはじめ、また自身で作曲もスタートさせた。
大学に入ると「デザイン」を学びながらアルバイトでお金をため、ギターも買い、20歳の時、両親の家へ下宿していたロシア移民のニコライ・ネフェドブ(Nikolai Nefedov)と、はやばやと結婚をする。しかし、2年のうちに離婚し、シングルマザーとして歌手の夢を追うこととなったのだった。
まず初めに、彼女は本当の名を捨て、下の息子の名前アレクサンダー(Alexander)にちなみ、アレクサンドラと名乗った。
アレクサンドラ(Alexandra)が22歳~23歳の時
1965(昭和40)年からしばらく、アレクサンドラはハンブルクを拠点としたグループ『シティ・プリーチャーズ(The City Preachers)』で活動を始める。
そのすぐ後、アレクサンドラはレコードプロデューサーのフレッド・ウェイリッチ(Fred Weyrich)に気に入られた。フレッドは彼女のメランコリックな声質を好み、レコード市場にアレクサンドラの入り込む隙間があると感じて、すぐに彼女をフィリップス(Philips )レーベルと契約させた。
フレッド・ウェイリッチは彼女の初めてのリリースを、通常の歌手との差別化をとるため、シングルではなくLP(アルバム)として発表することを決めたのだった。
アレクサンドラ(Alexandra)が24歳~25歳の時
アレクサンドラ(Alexandra) – Premiere Mit Alexandra (LP) 1967
『Premiere mit Alexandra』というタイトルで1967(昭和42)年に発売されたこのデビューアルバムは、“Sag mir was du denkst”とタイトルされたフランソワーズ・アルディ(Françoise Hardy)の“Parlami di te”のカバーや “Warum”とタイトルされたクローダ・ロジャーズ(Clodagh Rodgers)の“Every day is just the same”のカバーとオリジナル曲をミックスさせたアルバムだった。
曲の提供者にはミヒャエル・クンツェ(Michael Kunze)、チャーリー・ニーセン(Charly Niessen)、ラルフ・ジーゲル・ジュニア(Ralf Siegel Jnr)といった著名な作曲家たちが勢ぞろいした。
アレクサンドラ自身もまた、このLPのために“Die Andern waren schuld”を自作した。
アレクサンドラ(Alexandra)が25歳~26歳の時
アレクサンドラ(Alexandra) – Zigeunerjunge / Aus (EP) 1967
1968(昭和43)年、ファーストアルバム『Premiere mit Alexandra』とツアーは、彼女への関心を呼びすぐに、ジプシー少年との報われない恋を歌った“Zigeunerjunge”が彼女のデビューEPとしてこのLPからシングルカットされた。
フォークと東ヨーロッパの魅力の組み合わせという、彼女のスタイルを確立させた。この曲は1968年に発売され、ドイツチャート22位のヒットとなった。
アレクサンドラ(Alexandra) – Sehnsucht / Was Ist Das Ziel? (EP) 1968
彼女の最大の成功は、次のシングル“Sehnsucht”だった。この曲を彼女は激しく嫌っていたが、マネージャーとプロデューサーに歌うよう強要された。少しずつトップ10からは落ちていったものの、1968(昭和43)年夏のドイツチャートに6か月以上も留まるロングランヒットとなる。
アレクサンドラ(Alexandra) – Illusionen / Auf Dem Wege Nach Odessa (EP) 1968
ドラマチックな曲“Illusionen”は彼女にとっての3番目のヒットであり、最も愛さ続ける曲のひとつとなった(B面には“Auf dem Wege nach Odessa”を収録)。
これは彼女が、オーストリアのスター、ウド・ユルゲンス(Udo Jürgens)とともに作った曲で、後にシャーリー・バッシー(Shirley Bassey)によって“If I never sing another song”としてカバーされている。
1年以上に渡り、彼女は自身でたくさん作曲をしており、またユルゲンスやサルヴァトール・アダモ(Salvatore Adamo)といったスターと共同での作曲も行った。
アレクサンドラ(Alexandra) – Alexandra (LP) 1968
シンプルに『Alexandra』とタイトルされた2枚目のLPが、その年の終わりに発売され、売れ行きは好調だった。
この中でハイライトとなったのは、アダモの“Nombe la neige”のカバーである“Grau zieht der Nebel”と彼女自身が作曲した“Mein Freund, der Baum”で、両曲とも彼女の死後、シングルとして発売されている。
アレクサンドラ(Alexandra)が26歳~27歳の時
アレクサンドラ(Alexandra) – Schwarze Balalaika / Walzer Des Sommers (Valse D’Été) (EP) 1969
今まで順調にみえたアレクサンドラのレコードセールスだったが、1969(昭和44)年の彼女のファーストシングル“Schwarze Balalaika”はまったく売れずに、完全に失敗に終わった。
しかもアレクサンドラは、その年のユーロビジョン・ソング・コンテストのドイツ代表を選ぶ決勝にエントリーすることを熱望していたが、体調を崩し参加できなかった。
彼女が3曲のうちどれを歌うつもりだったかということさえ、知られていない。
ブラジルでのツアーがドイツのテレビスペシャルで放送され、彼女の知名度をさらに上げた。
アレクサンドラ(Alexandra) – Erstes Morgenrot / Klingt Musik Am Kaukasus (EP) 1969
彼女の最後のヒット曲は“Erstes Morgenrot”で、チャート17位となった。しかし1969年6月にこの曲が発売されてから2週間も経たないうちに、彼女は車の事故でこの世から去ってしまった。
アレクサンドラの死は、何年にも渡り事故をめぐって数々の推測がなされてきた。アメリカのスパイ、ピエール・ラファエル(Pierre Lafaire)と付き合っていたために、彼女の死には、東ドイツの秘密警察や国家保安省シュタージ(Stasi)が関わっている、という議論をする人もいる。
そして彼女の死後、たくさんのシングルやベストアルバムが発表された。
表面上、アレクサンドラの1960年代のドイツ音楽シーンに対する貢献は小さく感じるかもしれない。
しかし、彼女の成功により、新しいスターや、既存のスターたちなどによる、似たような曲の波が起こった。彼女の独特のスタイルは、他のどんなものとも異なり、またどんなものと比べても劣ることはない。
参照元:Ready Steady Girls